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人生邂逅の3大法則〜良い先生、良い友、良い読書〜

「泣くのに時があり、ほほえむのに時がある。嘆くのに時があり、踊るのに時がある」。人間は、自分では「希望のない状況」であると思ったとしても、「人生の方からは期待されている存在」であると実感する深い学びの時が与えられている。その時、「その人らしいものが発動」してくるであろう。

南原繁の先生は、内村鑑三と新渡戸稲造です。南原・矢内原は、戦後、東大の総長を12年間務めました。新渡戸稲造、内村鑑三に学んだ南原繁が、どれほどの「純度の高い専門性」を身につけて、そして、「社会的包容力」を持ったか。後世に生まれた人間は、それを学ぶべきです。人生の邂逅の三大法則は、「良い先生に出会い、良き友に出会い、良い読書に出会う」。成長は「不連続の連続」である。階段を上るごとく、身長が伸びたと思ったときに、人間は成長します。あのときに、自分の身長が伸びたと思う出会いをするのです。これが、「カフェと出会った24人」ですね! 人生は開いた扇のようである。人生における出会いは、出会った時に受ける影響だけに留まらず、20 ~30年後に影響してくることがある。

私の生涯に強い印象を与えたひとつの言葉がある。「ボーイズ・ビー・アンビシャス」(boys be ambitious) である。札幌農学校を率いたウィリアム・クラークが、その地を去るに臨んで、馬上から学生に向かって叫んだと伝えられている言葉である。もちろん、当時の私は、クラークのことも札幌農学校のことも知らず、クラーク精神が新渡戸稲造(1862-1933)、内村鑑三(1861-1930)という後に、私の尊敬する2人を生んだことも知らぬまま、ただ、小学校の卒業式で、来賓が言った言葉の響きに胸が染み入り、ぽっと希望が灯るような思いであったものである。これが私の原点であり、そして19歳の時から、自らの尊敬する人物を、静かに、学んできた。その人物とは、南原繁(1889-1974)であり、上記の新渡戸稲造・内村鑑三であり、また、矢内原忠雄(1893-1961)である。

間接的な最初の出会いは南原繁に始まる。19歳の時に、東大法学部の学生時代に南原繁から直接教わった人物に出会い、その人物を通して、南原繁の風貌を知るに至った。大変、興味を抱き、南原繁をもっと知りたいと思った。「将来、自分が専門とする分野以外の本を、寝る前に30分読む習慣を身につけよ。習慣となれば、毎朝、顔を洗い、歯を磨くごとく、苦痛でなくなる」と言われた。そこで南原繁の本をいろいろと購入して、必死に読んだ。当然、30分間では十分ではないので、夜を徹して読むこともしばしばであった。

南原繁の著作を読んでいると、新渡戸稲造に行き当たる。南原繁は、「何かをなす(to do)の前に何かである(to be)ということをまず考えよということが(新渡戸稲造)先生の一番大事な教えであったと思います」と語り、また「明治、大正、昭和を通じて、これほど深い教養を持った先生はなかったと言ってよい」と語っている。それではいったい新渡戸稲造とはどういう人物なのかと、今度は新渡戸稲造の本を購入して読むようになった。

南原繁は、内村鑑三に強く、深い影響を受けており、内村鑑三も必然的に読むようになった。さらには、同じく、新渡戸稲造と内村鑑三から強い影響を受けた矢内原忠雄のことも学ぶに至った。連鎖反応によりこれら4人の人物(南原繁→新渡戸稲造→内村鑑三→矢内原忠雄)の膨大な著作に向かい、彼らの思索の中に分け入った次第である。

私の故郷は無医村であり、幼年期、熱を出しては母に背負われて、峠のトンネルを通って、隣の村の診療所に行った体験が、今でも脳裏に焼き付いている。私は、人生3歳にして医者になろうと思ったようである。医師になり、すぐ、癌研究会癌研究所の病理部に入った。そこで、また大きな出会いに遭遇したのであった。病理学者であり、吉田富三(1903-1973)の愛弟子であり、当時の癌研究所所長であった菅野晴夫先生(癌研顧問)は、南原繁が東大総長時代の東大医学部の学生であり、菅野晴夫先生から、南原繁の風貌、人となりを直接うかがうことが出来た。南原繁には、ますます深入りした。

病理学者の私が、「新渡戸稲造」を「陣営の外」に出て話し始めたのは、2000年『武士道』発刊100周年シンポジウムで、国連大学で講演の機会を与えられたのがきっかけである。上述のように、若き日に戦前の東大法学部時代の南原繁(後の総長)の教え子である人物に出会い、南原繁の読書に明け暮れ、その読書の習慣を通して、「南原繁の恩師である新渡戸稲造の存在」を知り、新渡戸稲造の読書にも耽った。その事を通して、新渡戸稲造を尊敬する人物との出会いが始まり、2000年、『武士道』発刊100周年シンポジウムで講演の時が授けられた。「ぶれぬ大局観の獲得」は「不思議な人生の邂逅」の連続によって与えられることの体験的学びであった。まさに「進歩と保守の一致する所、旧と新との融合する所、そこに真醇なるものが生起する」(内村鑑三)の言葉が鮮明に甦る。

1860年代遣米使節団が、ニューヨークのブロードウエイを行進した。彼らの行進を見物した詩人ホイットマンは、印象を「考え深げな黙想と真摯な魂と輝く目」と表現している。この風貌こそ、現代に求められる「学者の風貌」ではなかろうか。「“学者”とは、徳によって与えられる名であって、学識によるのではない。———いかに学識が秀でていても、徳を欠くなら学者ではない。学識があるだけではただの人である」、「一人一人、つまり顔と顔、魂と魂とをあわせて扱われなくてはならない」(「中江藤樹―村の先生―」:『代表的日本人』内村鑑三著)とは、まさに病理学の「風貌を診て心まで読む」に適用されよう。「練られた品性と綽々たる余裕」は「教育の真髄」である。「目的は高い理想に置き、それに到達する道は臨機応変に取るべし」(新渡戸稲造)の教訓が今に生きる。