勝海舟記念下町浅草がん哲学外来Café

生命の選択について

 3月は年度末かつ異動シーズンのため、一般的に今月はせわしい思いをされている方が多いはず。そんな中、3月度の「下町(浅草)がん哲学外来」の「がん哲学カフェ」(以下、「がん哲カフェ」は18日に開催され、常連だけでなく初めての方が2名参加された。この日のお題は、最近ニュースを賑わし物議を醸している「透析患者が医師の一方的な判断で治療を中止され死亡」した例をあげ、医者の発言力、個人の生命の選択について議論を展開した。

 病気になり医師にみてもらう場合、患者は(勉強はするものの)一般的に専門性がないため医師の考えをきき、治療方針に同意し、信頼を寄せ、治療や生命を任せる。

 では、医師の考えがすべてなのか?
 そうでは、ない。

 治療法に納得がいかなかったり不安を感じたりする時は、他の医療機関でセカンドオピニオンをうける権利が患者にはある。しかし、医師に全幅の信頼を寄せていて、知恵がなく何の疑問も感じずに生命を落としたりする場合も、事実ある。

 そもそも医療は誰のものだろうか?
 厳しい勉強をつんで医師免許を取得して医師になった彼らのものなのだろうか?

 病気になった人(=患者)が存在しないと、医療ビジネスは成立しない。で、あるならば医療は患者のものといえる。にもかかわらず、医療の現場では医師の発言力が圧倒的で、治療や最期の在り方が他者(=医師などの医療機関)によって決められていく風土が定着している。

 透析治療を医師の判断で中止した患者は、すぐに生命を落としたという。

 治療を中断すれば死に直結することを医師が知らないはずはない。早くに医師から見放され死を待つだけの身となった患者に選択肢はなかったのだろうか。

 この患者が、他の医療機関で治療を受けていたら別の展開があったことだろう。

 同じことはがん治療や他の病気についてもいえる。無用な処置が施されたり、効果があるとも思えない薬がいくつも処方されたりしているが、医療現場では正義感はあっても医師に抗議する習慣がなきに等しい。つまり、医師は医療ビジネスのピラミッドの頂点に君臨しているのである。

 その医師が不足しているという(一部の)深刻な現状に対して、「働き方改革」が勧められているが、何をどのように変えればいいのかが疑問である。これに関して言うならば、医師の薬の処方は底が浅い印象がぬぐえず、煩雑な作業が多く時間がないというならば、代わってAIがこの作業をやった方が効率的かつ正確なのは確かだ。しかしながら、制度というものは簡単には変えられないものだ。

 重篤な病気を抱える患者にとって医師は人生の貴重なパートナーである。どれほどすばらしい医師に出会い、治療をゆだねるかが、患者の運命を決定するともいえる。現在の医療現場は、生命の選択に絡む医師が人間的に長けた「グッドドクター」に成長するためにふさわしい土壌なのだろうか?

 そうとはいえないというのが、医療や福祉の現場で働く参加メンバーの意見だった。

 患者に話しかけ、不安を抱える彼らに安心感を与えられる能力といったものが、最近の医師には欠如しているように思う。

 だからこそ、がんに罹患した人々の心のケアをどう扱うかに着目した樋野先生の精神に共感し、「がん哲学外来」に足を運ぶ人たちが増えているのかもしれない。

【2019/3/18 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)

 

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