長寿大国日本は深刻な老人問題を抱えていることもあり、日本国内の医療問題を考える時、どうしても「がん」や「高齢者」のケアばかりが目立っているように感じる。しかし、がんに罹患しない人もいるし、若い世代は高齢者問題などずっと先と思い無関心の人が多い。また、がんよりも重篤で24時間ケアが必要な病気も存在する。
死者のグリーフケアはどうだろう。たとえば、都会のど真ん中で高齢者の運転過失により、若い母親と幼い生命が失われた事件。いきなり家族をうしなった若い父親の悲痛な叫びを聞いた人は身につまされたのではないだろうか。授かった新しい生命を死産という形で失った母親の悲しみ、育児ノイローゼで精神のバランスを欠いた母親の苦しみ、深い喪失感にある中、パートナーの裏切りにあうと辛さは2倍になるものだ……。
5月度の「下町(浅草)がん哲学外来」の「がん哲学カフェ」(以下、「がん哲カフェ」は20日に開催された。令和初のがん哲カフェであるだけに、今回は、がんに特化せずに視野を広げて生きていく上での辛さを考える時間を持つこととなった。
筆者の知人に、脳梗塞で倒れ麻痺がのこり車いす生活になった中年男性がいる。彼には、少しして肝臓にがんがみつかり、がん治療も加わった。ずっと自宅で奥様がかいがいしく介護をされていて、車いす生活ながらも工夫して旅行を楽しんでおられた。ところが、さらに認知症状が加わった。すると、不自由な身体にくわえ認知症による被害妄想で生命の恩人であるはずの奥様にあたるようになった。その後しばらくして、奥様が疲弊し、現在、彼は都内の施設で生活をしている。
家族は、最初は共同生活ができるかどうか心配されていたが、予想に反して彼はなじんでいるとのこと。脳梗塞とがんだけの場合は、身体の痛みや辛さに耐えられず家族に八つ当たりをすることが多かったようだが、認知症患者となった現在、自分が何を患っているかさえ認識できていないのである。
これは、辛さを考えた場合、幸運といえる事例ではないだろうか。3つの重篤な病気を抱えている彼の例に違わず、いくつもの病気を併発されている方は少なくないが、病気になると、必ずメンタルな痛みや辛さを伴うものである。患者を支える家族やその周辺の人々もそれらを引き受けることとなる。辛いのは当事者だけではない。
生きていく上で闘病をせず、事故にあうこともなく、大きな失敗もなく、愛する家族や大事な人を失うこともない……という人は、まず、いない。この世はリスクに溢れている。現在、該当しなくても、人は必ず生まれて死ぬまでの過程でなにかしらの深い悲しみや辛さを引き受けるものなのだ。そこで、人生に「勝ち組」と「負け組」があるように(嫌な表現だが)、辛さから「立ち直れる人」と「立ち直れない人」が存在する。
つまるところ、生きることと辛さはセットとういことを、認識して生きていくしかないのだ。そして、辛い体験や思いをためることなく、語る場所や時間を持つことは、とても大事なのである。
【209/2/20 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)