勝海舟記念下町浅草がん哲学外来Café

人は死んでも語られたいのか、そうでないのか?

 小池都知事率いる新生・都民ファーストが圧倒的な勝利を収めた都議会選挙の翌日、7月度の「がん哲カフェ」が行われた。2017年が半分過ぎて思うのだが、とにかく今年は、森友問題、加計学園問題、度重なる国会議員たちの失言暴言、議論が尽くされていない法案を強行採決するなど与党の失態や傲慢さが目立ち、騒々しい。

 「騒々しい」というのは、つまり、国民が怒っているということだ。国民という有権者に票を入れてもらい、国民の税金から給料をもらっている政治家たちが、自分たちのダーク(?)な部分を指摘されているのに説明責任を果たさず、はぐらかし逃げる。「どうせ、すぐに忘れてくれるだろう」ぐらいに思っているとしか思えない。そしてその有権者の一部から「出ていけー!」とやじられると、「あんな人たちに負けるわけにはいかない!」と言う。「あんな人たち・・・」とは、あまりの言いようではないだろうか。

 国民の関心が永田町に向いていた頃、全国のがん患者に希望を与え続けていたタレントで元キャスターの小林麻央さんが34歳の若さで亡くなった。6月22日没、報道がなされたのは翌日の6月23日。この日からしばらくメディアはずっとこの報道を流し続けた。

  麻央さん自身は生前、「がんになった事が私の人生のすべてではない」「34歳の若さで亡くなったからといって可哀そうだと思われたくない」という風に語っていたようだが、死亡報道は加熱気味だったといっても過言ではない。

 医療の世界には「デスカンファレンス」というものがあるが、(これにはご遺族は参加することもあるが、しないことの方が多いかもしれない)医療関係者が亡くなった人の経緯について話し合い、今後のケアのために参考にすることを目的としている。

 亡くなった麻央さんについてもデスカンファレンスがなされた(なされる)のだろうかとか老婆心ながら心が揺れてしまう。しかし今回は、メディアというものを盾に医療関係者以外でカンファレンスめいたものが行われるという事態が生じてしまっていることに注目。ネット上では「何故、麻央さんは死ななければならなかったのか?」「抗がん剤が彼女を殺した」など、治療法や医療の在り方について熱く盛り上がりをみせている。

 理由は言うまでもなく国民的人気を誇った女性だからだが、これは彼女が希望していたことだろうか?

 ということで、この日の命題は、「人は死んでも自分のことを語られたいのだろうか?」だった。さらに言うと、「どの程度、どのように死に至ったか、自身と関係のない人たちにまで知られたいかのかどうか?」。

 麻央さん亡き後、FBやツイッターは依然として多く、彼女のことを熱く語っている。夫である人気歌舞伎役者の海老蔵さんは、自身でもブログであれこれ発信しているから問題はなさそうだが、中にはご遺族の同意を得てカキコんでいるのかどうか怪しい内容のものも多いのが事実だ。

 政治の世界もそうだが、何故、こんな現象がみられるのか? 参加者の一人・江川さんは、「哲学と歴史(読書)の欠如がもたらした結果」と解釈する。さらに、勝海舟が胃がんで死期を迎えた山岡鉄舟に対して、「よろしくご臨終あられよ!」とだけ言葉にした話を引き合いに出した。勝海舟は「これでおしまい」。ちなみに、麻央さんの最期の言葉は、「愛している」だったそうだ。

 一般の人たちはどうだろう? どのように死に至ったか語られたいのか否か?

 参加者どうしも意見が揺れた。「語られたくない」「治療の参考にしたいと思う人がいるなら、ある程度は語られても問題ない」ProsConsde結論はない。

 人は誰でも自分が存在した証を残したいものだし、いつまでも覚えていて欲しいとおもうものだ。だが、「忘れられたくない」と「語られる」ことは違うような気がする。。

【2017/7/3 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)

 

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