20118年2月の「がん哲学カフェ」は、平昌冬季オリンピックで盛りあがっている最中の19日に開催された。数日前に男子フィギュアスケートの羽生選手と宇野選手が金と銀メダルを獲得、特に足の痛みをこらえながらも完璧な舞いで2連覇を達成した羽生選手の偉業に、日本国民はどれほど感動したことか。羽生選手のスゴイところは、人々を魅了する技術だけでなく、本大会で初めての金メダルを彼がゲットしたことではないだろうか。
厳しい競技生活を送っている選手であれば、やはり、金メダルが欲しいはずだ。一番高い表彰台に上るという高尚な執着心を持続させることができた者が、金メダリストになるといっても過言ではないのかもしれない。そのためにどれほどのドラマが展開したことか……。そんなことを考えながら、この日のがん哲では、「生きることを諦められないひと」というテーマで話し合った。
どんなタイプの人が、
どんな人生を送ってきた人が、
どんな状況にいる人が、
生きることを諦めない人なのだろうか?
勿論、病気や生きることが嫌になったからといって生命を粗末にしてはいけないし、長生きするために身体によいことをする努力は必要だ。ガンだと告知されたからといって早々と絶望し死に支度をするべきではない。辛い治療を乗り越え、事実、ガンを克服した人も多数いる。
しかし、その一方で、なかなか治療効果がでず再発転移を繰り返し、介護者にあたりちらしている人もいる。結果、本人も介護する人も疲弊しているのは否めない。また、高額な長寿の薬を求めたり、なかなか手に入らない臓器を他者からいただき移植手術をしたり、情報の海に溺れ根拠のない治療法に走る人も少なくない。
ガンやガン患者をテーマにした映画はこれまで多く製作されてきたが、現在から11年程前に公開された日本映画「象の背中」(2007年10月27日劇場公開)は、ヒットメイカー・秋元康の初の長編小説を映画化した作品で、産経新聞連載中からオヤジ世代の多くのサラリーマンに支持され話題を呼んでいた。
仕事のキャリアも家庭も順調、美しく優しい妻(今井美樹)がいて、5年越しの愛人(井川遥)もいる。2人の子どもは手がかからなくなり、仕事に趣味にと没頭できる、まさに人生の円熟期を迎えていた矢先、肺ガンにかかり余命半年と告知される48歳の藤山(役所広司)。
延命処置をとれば少しでも長く生きられる。しかし男は臨終の時を待つより、命尽きる日まで自分らしく現在を生きる選択をする。つまり「長さ」より「質」を選ぶ。病気のことは会社にも家族にも話さず鎮痛剤で痛みをこらえ、残された時間を有意義に使おうとするのだった。日々の煩雑さのせいでできなかったことをするために。
初恋の人と会い伝えきれなかった想いを正直に話し、ケンカ別れをしたままで長きに渡り会っていない高校時代の親友に会いにいき胸をわって話したり、絶縁していた兄と和解したり……。それでも進行するガンの痛みに耐えきれず、家族のために息子(塩谷瞬)にだけは本当のことを話し、自分がなくなった後の事を託すのだった……。
男の決断は正しいのだろうか? 原作ができた際、「男のご都合主義を讃美しているようで身勝手だ」、「これこそまさに理想の死だ」など賛否両論だったようだが。
家族にとって介護がいかに大変であっても愛する人を失うのは辛く悲しい。少しでも長く生きて欲しいと思うのが心情だ。ならばやはり、自分の死は自己決定してはいけないのだろうか、家族のために。
刻一刻とひどくなる病気で倒れた藤山。そして家族全員が父(妻にとっては夫)の死を意識し、本人の希望を尊重し、ホスピスで自宅での生活と同じように暮らしながらケアを受け、最期の瞬間を待つ選択をするのだった。
まだ「死」に慣れていない、社会にでていない2人の子どもにとって父がこの世から消えてなくなるという現実は、受け入れがたく厳しすぎる現実だ。それでも気丈な妻は夫の意向を理解し、涙をこらえて介護の日々を送る。
海辺のホスピスでの静かな毎日、最後までタバコをやめない藤山、砂浜での家族揃っての日光浴。死に向かう人間にとってこんなに長閑で平和な瞬間はかけがえのない時間であり、迫り来る最期の恐怖など感じないのではないだろうか。
ホスピスに愛人が訪ねてくる。藤山が電話をしたのだ。かいがいしく介護をしている上に愛人にまで顔をだされたのでは、いくら出来た妻でも心穏やかではない。が、妻は知らぬふりをして愛人に丁寧に対応する。愛人もでしゃばらず礼儀をしる人間だけに、妻の心中を思い遣る。全く、男という生き物はホントに自分勝手で甘えん坊でしょうもない! 誠実さと世のおおかたの男たちがもっているズルさも含めて、それが藤山の愛すべきチャーミングな人柄なのだろう。
絶縁していた兄(岸部一徳)もかけつけ、その後のことをあれこれと手配してくれる。2人でスイカを食べながら昔に戻り語り合う。藤山にとってもう心残りなど何もない。48歳という若さでこの世を終わらなければならない無念さはあるだろうが、イイ人生だったのではないだろうか? そんな風に思える人生を誰もが望んでいる。
答えのでないことに対しては曖昧に考えた方がいいというのが「がん哲学外来」の提唱者である樋野興夫先生の教えである。又、先生は、死もまた「ありがたくいただく」と教えられている。
【2018/2/19 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)