少子高齢化社会の現在、誰もがいつかは介護する側、あるいはされる側となる。当然、医療、福祉、介護などの分野でビジネスが活発になり、ある日唐突に介護問題に直面して、どうやって家族の介護をするべきか悩んでも、情報過多の現在、リテラシーの問題はあるとしてもあまりバタバタすることはない。
その一方で、特に、介護の現場では深刻な人手不足で、それが問題なのかどうかは不明だが、近年、国内で老人ホームでの不審死事件が多発しているという恐ろしい現実があり、私たちは自身や家族の終末期を、どこでどのように過ごすかが気になるところだ。
ということで、8月の「がん哲カフェ」の命題は、「看取りとは何か?」だった。
ネットで「看取り」「介護」と検索すると、でることでること! そんな中、「看取り」と「見送り」は同じか否か?というニュアンスの記事を見つけた。
「看取り」とは、文字通り解釈するならば、医療・介護をする側、あるいは終末期にいる家族のケアをする人の目線である。しかし、自分の最期をどうしたいか、どんなサービスを受け、どのように死にたいかを決定するのは、患者(つまり、介護を受ける側)のはずである。ならば、患者目線で「見送り」がふさわしいのではないだろうか?
この点に対して、参加者全員が、「医療者の上から目線だ」「おこがましい」という意見だった。さらに、「見送り」ではなく「看取り」が、国内で(欧米では、「見送り」)違和感もなく使用されているのは、単なる言葉の問題ではなく、思想面での影響が強いのではないかという意見だった。
がん哲学外来には、がんになってもがんでは死なない、最後まで自分らしく生きたい、という決意をもった方かちが多く訪れる。がんは確かに厄介な病気ではあるが、がん保険や緩和ケアがあったり、がん対策基本法があったり、終末期までは生活の質が落ちないなど、ALSなどの他の難病と比べると恵まれているという一面があるのは否めない。しかし、がんと闘っている方たちにとって、「看取り」という言葉をたやすく使うのはいかがだろうか? 彼らに「看取り」という言葉はどう響くのだろうか、気になるところだ。
結局、この日、答えはでなかったが、当会が主催する「下町(浅草)がん哲学外来シンポジウム」(12月9日)では、医療・介護の現場に従事する方たちに、このテーマについて熱く語ってもらう予定である。
【2017/8/21 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)