4月1日、新元号「令和」になると発表があり、来月から施行され新時代を迎える。そのせいか、最近のテレビ番組は「未来に残したい、昭和・平成の歌」「記憶に残る平成の事件(出来事)」といった番組が目立つ。
4月度の「下町(浅草)がん哲学外来」の「がん哲学カフェ」(以下、「がん哲カフェ」は15日に開催された。月1回開催のがん哲カフェにとって、この回が「平成最後のがん哲カフェ」となること、残念ながら令和を迎えることなくこの世を去った仲間がいることを考慮し、少し立ち止まり、彼らが行った(?)「あの世」について語ることとなった。
ところで、「あの世」はどんな世界なのだろう?
そもそも存在するのだろうか?
あの世(未来)、この世(現世)、過去(過去世)と分類されているようだが、現世を生きる私たちは、あの世を経験したことは誰一人ないので、そのことについては推測でしかないことを忘れてはならない。宗教家や研究者の知見に基づいて納得するしかないのだ。ただ、ひとつはっきりしているのは、この世に生まれてきた者は必ず死に、誰一人として死なない者は存在しないということだ。
日本では、約7割の人が病気で死に、死因のトップはがんである。
このがん哲カフェでは、医療者、がん患者、患者の家族など日常的にがんに関わる人たちが集い、忙しい病院では得られないメンタル面でのケアや情報交換などを行っている。「がんになっても自分らしく、勇気をもって生きる」をモットーにして。では、このカフェに足を運んだ人が死なないのかというと、そんなことは決してなく、人はそれぞれの寿命を生き、最期の時を迎え死に至る。
治療がうまくいかず終末期を迎えたがん患者(他の病気もそうだが)やその家族は、死を迎える準備をしなければならないが、どんなに覚悟をしていても大方の人は動揺するものだ。
……私は、天国へいけるのだろうか?……
……あの世はどんな世界なのだろうか?……
……愛する人を失った私の孤独はいかほどだろうか?……
……愛する人のいない世界に自分は慣れることができるのだろうか?……
死にゆく人もそれを見送る人も穏やかとはいいがたい時間を経験する。
余談だが、筆者も少し前に最愛の家族をがんで亡くしたばかりだ。末期がんでの治療だったため覚悟をしていたが、やはり、悲しい。それでも(誰でもそうだが)葬儀をすませ、四十九日法要を営み、愛する人が天国にいけるように仏事作法にのっとり納骨をすませた。
最初は煩雑な用事が多く泣いている暇はあまりなかったが、用事がほぼかたづくと、途端に深い喪失感を味わうこととなった。
……そうか、もういないのだ……
……私とは違う世界にいってしまったのだ……
がん哲学カフェと死は密接に結びついているため、がんになった人が、やがてくる死を受け入れて、生命の時間を有意義に送るように導くこと同様に、送る人の心の向き合い方をフォローすることも重要な課題である。
最近は葬送の在り方が多様化し、核家族化が進んでいることもあり、墓に入ることを拒む人や墓終いをする家が多いときく。それでも日本にはお盆という風習が各地に根付き、あの世の人が里帰りをするとされ、この時期になると人々はお盆休みをとり家族と一緒の時間をもち、ご先祖を思い、墓参りをして過ごしているようだ。なんとすばらしい風習が、続いていることだろうとつくづく思う。
死んでも無になることはなく、違う世界に逝ってしまった愛する人が、この世に期間限定で戻ってくる。そう思うことで孤独や悲しみを癒やし、心のよりどころとしているのである。
死んだ人は、愛する人を守るために虫になって、あの世とこの世を行き来し、見守っているという説もある。
肉体は滅んでも、霊魂は滅びることはない。死んであの世にいくことは、終わりではないと思うと、穏やかな気持ちになるのは筆者だけだろうか?
答えがでないことは、永遠に問い続けるしかないのだろう。答えのでないことに対しては曖昧に考えた方がいいというのが「がん哲学外来」の提唱者である樋野興夫先生の教えである。そして、樋野先生は、死もまた「ありがたくいただく」と教えられている。
【2019/4/15 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)