勝海舟記念下町浅草がん哲学外来Café

今の時代の「ポジティブ・シンキング」とは?

 2018年5月の「下町(浅草)がん哲学外来」の「がん哲学カフェ」は、22日に開催された。

 折しも1年前に決着できなかった加計学園問題や森友問題の続きが勃発し、真相解明して欲しいものの、他に議論すべき問題が数多く残っているのに……と思う方は少なくないはず。さらに、5月6日に起きた日大アメフト部の悪質タックル事件が連日報道され、そんな中、昭和芸能史の一時代を築いた歌手の西城秀樹さん、女優の星由里子さん、朝丘雪路さんの訃報がはいった。何とも忙しく、精神的な疲労を覚えたのではないだろうか。

 そんな中開催されたこの日のテーマは、「この時代のポジティブ・シンキングとは?」。前向きに生きようとするものの、それを阻む要因はどんなものがあるのか? 前向きさを維持するためには何が必要なのか?などについて参加者で話し合った。

 がん治療を受ける人にとっては、初期ガン以外は「一難去ってまた一難」という思い、まさに一喜一憂である。病に打ち勝つためにもプラス思考を意識していても、治療期間が長引き、症状がころころ変わると、確かに精神的に疲労するものだ。

 そういう状況にあるがん患者やその家族にとって、いかにポジティブ思考を維持させるかが延命や良好な治療結果のカギになるといっても過言ではない。

 ポジティブ思考が揺らぐのは、治療法などについて自分の意見を押し付ける人と話す時/おせっかいな人と接する時/FBやツイッターなどの情報に左右される時/治療結果が良くない時など様々だろうが、前向きさを維持し続けるには、これらの要因から距離を置くことや他者の考えに動じない「鈍感さ」をも持ち合わせることも、ある意味必要なのかもしれない。

 今回ご紹介する映画「世界の中心で、愛をさけぶ」(2004年5月8日劇場公開)は、250万部を突破した片山恭一の同名小説の映画化。この中で主人公が青春時代に愛した女性は、白血病で若い生命を失うという設定になっている。

 主人公の朔は昔、広瀬亜紀という学園のマドンナ的存在の少女を好きになった。成績優秀かつスポーツ万能、多感でちょっとフツーの少女とは違う大人びた雰囲気をもった亜紀は少年たちの憧れの的だった。朔にとって高嶺の花だった少女が、なぜか朔と交際するようになった。

 亜紀を演じる長澤まさみは白血病で倒れる薄幸の少女役を演じるためにスキンヘッドになって力演している。病状が悪化し全ての髪が抜け落ち、血の気のない顔になり、若さが損なわれても、愛という概念を理解できない若者であっても、朔は精一杯“愛する”亜紀のために寄り添って生きていく。やがて観る者は、病室で亜紀と朔をつなぐ小さなキューピットを引き受けていたのが後に朔のフィアンセとなる律子だと知る。

 主人公は、愛しすぎたためにガンで逝った彼女を忘れられず過去を振り返るのを避けてきた。亜紀が「忘れられるのが怖い」と言い写真屋のオヤジ(山崎努)の計らいで結婚写真を撮ってもらった。そんな元カノとの約束を守るかのように。忘れられない朔は過去と決別できずに現在を生きることができない。

 ところで“忘れることができない”ことはポジティブではなく、正しくない行為なのだろうか?
 そもそも何故忘れなければいけないのだろうか?

 朔は結婚を控えている。人は確かに現実に踏みとどまっては生きていけない。第一新しいパートナーに失礼だ。しかしなぜ、今ごろ婚約者の律子は亜紀のテープを見つけたのか?

 まるで過去と「決別」する時がきたかのように。そう、過去と「対峙」する機会が巡ってきたのだ。運命的に。死に行く者より残された者がどうその痛手を引き受けなければいけないかは言うまでもない。

 だから、敢えて言おう。忘れなくていいのだ!
 何故、自身の人生に深い影響を与えた人のことを記憶から消さなければならないのか!

 輝かしい時代を浄化しきらめきに変え、新たな未来の輝きをつかむために心の糧としていけばいいのだ。新しい愛に向かって……。

 ポジティブであることは、確かに難しい。しかし、そう意識し続けることで、変わるものがあるのではないだろうか。ネガティブよりポジティブがいいに決まっている。

【2018/5/21 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)

 

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