9月の「がん哲カフェ」の命題は、「人(患者)に宗教はあった方がいいのかどうか?」。
医療の現場における宗教の問題は、○○教徒は「身体にメスをいれない主義なので手術はしない」「栄養をつけないといけないと思うものの菜食主義なので野菜しか食べることができない」「がんなどの病気になるのは神または(教団の場合)教祖の教えだから素直に受け入れる」といった具合に十人十色。がん治療の場合は、外科手術、化学療法、放射線治療といった標準治療があるが、宗教があるがために選択肢が制限される傾向がある。明らかに助かる見込みがあるのに、治療をうけない患者に対して、医療者の思いはどうなのか気になるところだ?
ところで、人はどういう時に、どういう経緯で、宗教(信仰)を持つのだろうか? また、どのように自身の信仰と病気(治療)のバランス感覚をとるべきなのだろうか?
日本の場合、長い歴史をもつ仏教が深く根付いており、お盆や彼岸には墓参りをして家に僧侶をよんでお経をあげてもらい、先祖を供養するためにお墓と仏壇を持つ習慣を守っている家が多い。その一方で、キリスト教の行事であるクリスマスが師走の行事としていつしか定着し、きらびやかなネオンもあいまって大盛り上がり。クリスマスは家族揃って集まり、七面鳥などの御馳走を食べてプレゼントを交換しあうといった家族の光景が当たり前のようになっている。つまり、仏様も神様もあり!という国。勿論、それ以外の宗教を持つ人々も多い。
信じる者は救われる。何か心のよりどころを持つことは、不安な時代を生き抜く手段ではある。先祖代々同じ宗教を信仰しているので、自身もそのまま踏襲。無宗教だったが、大変な状態の時に出会った宗教に癒され支えられたので、その宗教にすがった。きっかけは様々だが、熱心に信仰していたのに、自身や愛する人たちが不治の病にかかった場合、どうだろうか? 「神も仏もない」と絶望し、改宗したというのはよく聞く話だ。
がん治療の医療現場において、医療の現場ではなしえない(行き届かない)心のケアを目的とした「がん哲学外来」の提唱者である樋野興夫先生は、現場から離れた場所で、キリスト教徒であることからその思想に根差した心の処方箋を患者やその家族に届けている。
医療技術を含め時代はすごい勢いで進化する中、AIが人々の仕事を奪おうとしているといっても過言ではない。一部では、AIがお経をあげているお寺もあるという。人々の宗教観も変わっていくものなのだが……。
参加者の意見を聞くと、宗教を持つのも持たないのもどちらも正解。どんな宗教を持つかではなく、まずは考えること自体が大事!という回答だった。宗教と自身の病気(治療)のバランス感覚が大事なのは言うまでもない。答えは自分が持っているということだ。
【2020/9/4 がん哲カフェ】(文・桑島まさき/監修・宮原富士子)